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武満徹の母について!妻と娘は?経歴とエピソードも紹介!

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6月12日の「ららら♪クラシック」に日本が世界に誇る作曲家、武満徹が取り上げられます。

武満徹と言えば、あの有名な「ノヴェンバー・ステップス」がまず浮かんできます。

「ノヴェンバー・ステップス」は中学の音楽の教科書にもついていました。

オーケストラの中央に羽織袴の日本人が2人。

その姿は最初、異様な感じがしますが、生徒達はその堂々とした姿と音楽に次第に惹きつけられていったのを思い出します。

今回は、武満徹について知るために、まずは武満徹の母親と妻や娘、経歴とプロフィール、そしてエピソードの数々をご紹介していきます。



武満徹の母親について

まず、武満徹の母親について見ていきます。

武満徹の母親は麗子さんと言われました。

帝国海上保険に勤めていた父親のたけおさんが武満徹が生まれた1930年に満州の大連に赴任したので、母親の麗子さんは生後1ヶ月の武満徹を連れて満州に渡りました。

母親の麗子さんはとてもしっかりした人で、仕事に行きたがらない父親をなんとか行かせようとがんばっていたそうです。

父親が亡くなってからは、父親が勤めていた会社で働き、武満徹と2人の妹たちを育てました。

母親、麗子さんの性格はさっぱりしていて、子ども達の生き方にも干渉しなかったそうです。

武満徹は小学入学時に「東京の小学校に入学したい。」と言って、一人で日本に帰国します。

まだ7歳の息子を一人日本に帰すなんて、普通は心配でできないでしょうけど、武満徹の母親はすごく心の大きい人だったのですね。



武満徹の妻と娘について

 

次に武満徹の妻と娘について見てみましょう。

武満徹は劇団「四季」に所属していた若山浅香と1954年に結婚します。

妻の浅香さんは東京都世田谷にある恵泉学園で学びますが、そこでコラージュ作家の岡上淑子と同じクラスになります。

岡上淑子は後に武満徹の妻となる浅香さんとの出会いをきっかけとして、コラージュ作家としてデビューし、高く評価を受けることになります。

妻の浅香さんは武満徹と結婚して、若い時は極貧の生活で随分苦労されたようですが、

妻としてずっと武満徹を支えてこられたようです。

武満徹の娘さんは武満真樹さんと言われます。

娘の真樹さんは1961年に生まれました。

真樹さんは上智大学外国語学部比較文化学科を卒業し、洋画翻訳を始められましたが、その後、音楽プロデューサーとして活躍してこられました。

コンサートやテレビ、ラジオでの司会も多数です。

武満徹没後20周年にあたる2016年やその前後にも、娘として武満徹の思い出を語っておられます。

昨年2109年12月も、フェニーチェ堺で開催された武満徹のミニフェスティヴァルで、娘の真樹さんプロデュースのトーク&ライヴが行われました。

娘の真樹さんによると、武満徹は阪神の大ファンで、ビートルズが好きな普通の父親だったそうです。

娘の真樹さんが夢中になっていたプリンスもやがて聴くようになられたそうです。

また真樹さんは父親の武満徹から「音楽家や作曲家とは付き合うな。」と言われたそう。

そして「どうしても付き合うならクラシック以外の音楽家にしろ。」と言われたそうです。(笑)



武満徹の経歴とプロフィール

経歴

それでは、武満徹の経歴とプロフィールをお伝えします。

武満徹は1930年10月8日に東京本郷区駒込曙町(現在の文京区本駒込一丁目)で生まれました。

そして、生後1ヶ月で父親の勤務先、満州へ渡ります。

武満徹はそこで、父親の吹く尺八の音色を聴きながら育ちました。

1937年、武満徹は一人で帰国し、東京の富士前小学校に入学します。

そして母親の姉の家で暮らし始めました。

母親の姉すなわち、武満徹の伯母は生田流筝曲の師匠をしていたので、武満徹はここでも日本の伝統音楽に触れながら育ちました。

でも学校の音楽は大の苦手だったそう。

満州にいた父親が重病になり、家族全員で日本に帰って来ましたが、家族は父親の実家のある鹿児島に行き、武満徹は一人東京の叔母の家に残りました。

翌年、父親は他界します。

1943年、武満徹は旧制の私立京華中学校に入学しました。

戦時中であったので軍事教練が行われ、戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばすほどの軍国少年だったそうです。

そんな武満徹でしたが、1945年、埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員された時、宿舎の同室の下士官が隠れて聞いていたシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」を耳にして衝撃を受け、これが武満徹が音楽家を志すきっかけになりました。

終戦後、武満徹は進駐軍のラジオから流れるドビュッシーなど近代フランスの作品を聴く一方、横浜のアメリカ軍キャンプで働きながらジャズにも親しむようになりました。

1949年、武満徹は音楽家になるために東京音楽学校(その年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験します。

しかし、そこで熊田という天才少年と出会って、「作曲をするのに学校で教育を受ける必要はない。」という話になり、結局2日目の試験は欠席しました。

1950年、武満徹はピアノ曲「2つのレント」で作曲家デビューを果たします。

しかし、この作品は新聞紙上で酷評され、武満徹は深く傷ついたそうです。

その後、詩人の瀧口修造と知り合い、芸術集団「実験工房」に参加。

バレエ音楽と指揮を担当したり、ピアノ曲を発表したりと活動を広げていきます。

そして映画や舞台、ラジオ、テレビなどジャンルにとらわれない創作活動を展開していきました。

1954年には森永チョコレートのコマーシャルも手がけました。

また同時期に、「さようなら」「うたうだけ」などの合唱曲も作りました。

この頃に武満徹は若山浅香さんと結婚しています。

1957年、「弦楽のためのレクイエム」を発表。

この曲は、日本国内では受け入れられなかったのですが、1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然に聴いたことから世界的に評価されるようになりました。

1959年には「20世紀音楽研究所」に参加。

1961年に発表した、オーケストラのための「リング」初演で指揮を務めた小澤征爾とは、生涯にわたって親交を結ぶことになります。

1964年の「テクスチュアズ」は日本人作曲家として初めてユネスコ国際作曲家会議でグランプリを受賞し、作曲家、武満徹の名前を不動のものにしました。

1960年代には数多くの映画音楽を手がけて高い評価を得ました。

武満徹は、若い頃、年間に数百本の映画を見るほどに映画を愛していて、娘の真樹さんによると、映画音楽の仕事にはとても楽しそうに取り組んでいたということです。

また1962年以降、映画やテレビドラマの中で、西洋楽器と邦楽器を組み合わせた作品を多数作るようになり、1966年放送のNHK大河ドラマ「源義経」ではオーケストラと邦楽器を組み合わせた曲を作りました。

そして、琵琶と尺八という今までには考えられない組み合わせの二重奏曲「エクリプス」を発表しました。

この曲が小澤征爾によってニューヨーク・フィル音楽監督のレナード・バーンスタインに伝えられ、このことがニューヨーク・フィル125周年記念作品の委嘱につながりました。

そして、1967年、琵琶と尺八とオーケストラによる「ノヴェンバー・ステップス」が生まれたのです。

こうして、武満徹は「世界のタケミツ」となっていきました。

その後は、1970年の万博での音楽監督、翌1971年、札幌オリンピックのオーケストラ曲「冬」など、日本を代表する作曲家として活躍しました。

1975年にはエール大学客員教授として、1976年と77年にはトロントで開催された「ニューミュージック・コンサーツ」のゲスト作曲家として招かれました。

こうやって、ジャンルを飛び越えた数多くの音楽を生み出してきた武満徹ですが、1995年、膀胱と首のリンパ腺にがんが見つかり、長期の入院生活を送ることになります。

一時退院した際に作曲した「森のなかで」と「エア」が武満徹の最後の作品となりました。

そして1996年2月20日、武満徹は虎の門病院で永遠の眠りに就きました。

享年65歳です。

プロフィール

こちらは、武満徹のプロフィールをまとめたものです。

日本コロムビアオフィシャルサイトから引用させていただきます。

1930年東京生まれ。幼少時代を父親の勤務地である満洲の大連で過ごす。
1937年、小学校入学のために単身帰国する。長じて戦時中に聞いたシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』で音楽に開眼。戦後、作曲を志して清瀬保二に師事するが、実際にはほとんど独学で音楽を学んだ。
1950年、処女作であるピアノ曲『2つのレント』を発表。当時の音楽評論界の御意見番的存在だった山根銀二によって、「音楽以前である」と酷評されたことは有名な逸話となった。
1951年には詩人の瀧口修造の下で、『実験工房』結成メンバーに加わり、いわゆる前衛的手法に沈潜する。転機となったのは1957年、結核の病床で書いた『弦楽のためのレクイエム』。この厳しくも美しい作品は、来日したストラヴィンスキーよって絶賛され、武満徹の名を世界に知らしめることとなった。
1967年、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の創立125周年記念作品をバーンスタインから委嘱され、琵琶と尺八、オーケストラとによる協奏的作品『ノヴェンバー・ステップス』を発表。この成功が作曲家の名声を決定的のものにした。晩年にはオペラの創作にも取り組んだが、1996年2月20日、膀胱ガンのため逝去。残念なことに唯一のオペラは完成をみなかった。享年65歳。

引用元 https://columbia.jp/artist-info/takemitsu/prof.html

武満徹のエピソードも紹介!

みんなに愛された武満徹には多くのエピソードが残っています。

最後に、それらのエピソードを紹介します。

中学時代の軍事教練でのエピソード

軍事教練で教官の手塚金之助少尉からしごかれ、入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだら、目の前にその教官がいて殴られたそう。(笑)

ピアノを贈られたエピソード

若い頃は貧乏でピアノを買うお金がなかったので、ボール紙で紙ピアノを作り、それで指の練習をしていたそうです。

また道を歩いていてピアノの音が聞こえると、その家へ行きピアノを弾かせてもらっていたそう。

武満本人は「1軒もことわられなかったから、運が良かった。」と言っていますが、同行した友人によると、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたそう

芥川也寸志を通してそのことを知った黛敏郎は、まだ会ったこともない武満徹に妻のピアノをプレゼントしました。

武満徹が驚いて黛敏郎を訪ねると、「結婚してピアノが2台になったから使ってください。」と言われたそう。

熱心な阪神ファンだったエピソード

「燃える秋」の主題歌のレコーディングを終えて帰って来た武満徹はとても機嫌が良かったそうです。

それは主題歌を歌ったコーラスグループ、ハイ・ファイ・セットのメンバーが全員、阪神ファンだったから。(笑)

反対に、「どこのファンだ?」と聞いた相手が「巨人」と答えたら、「君のために曲は書けない。」と怒ったというエピソードも。(笑笑)

黒澤明監督とのエピソード

黒澤明監督と武満徹は作りたい音楽のことで随分喧嘩をしたらしいですけど、映画の打ち上げが終わり、黒澤監督が帰った後、武満徹が急にピアノで弾き歌いを始めたのが後に有名な合唱作品となった「明日ハ晴レカナ、曇リカナ」。

「明日の監督の機嫌は晴れかな曇りかな?」という意味だったらしいです。(笑)

「ノヴェンバー・ステップス」初演のエピソード

1967年11月9日、ニューヨークのエイブリー・フィッシャー・ホールで「ノヴェンバー・ステップス」の初演が行われました。

小澤征爾指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと共にステージに登場した2人の日本人。

その手には見たこともない楽器が。そして羽織袴という見慣れない格好。

琵琶の鶴田錦史と尺八の横山勝也です。

聴衆はどよめきましたが、曲が進むにつれて、会場は感動で包まれていったのだそうです。

このエピソードはその後ずっと語り継がれることになりました。

まとめ

今回は、日本が誇る作曲家、武満徹の母親と妻や娘、経歴とプロフィール、そしてエピソードについてお伝えしました。

「ららら♪クラシック」では合唱曲「うたうだけ」があるようです。

とても楽しみです。

 




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